朝の10時から夜の10時まで毎日授業がびっしりというハードスケジュールの中で日々悪戦苦闘を繰り広げている。出来る子もいれば出来ない子もおり、私の塾のキャパシティからすると当然全員を救う訳にはいかない。それでも、大きな看板を揚げている塾では考えられないハードカリキュラムを普通の地元中学の成績「3」レベルの子がクリアーしていくのを見ると、まだまだ教務力で他塾に負ける気がしない。人生も勉強も一緒、レベルを下げることはいつでもすぐに出来るが、上げるには不断の努力が要るものだ。その事を彼ら彼女らが分かるようになるにはもう五年十年掛かるかも知れないが、それくらいに物分りの悪い大人が一人ぐらいいてもバチは当たらないだろう。
中学~高校の年齢段階には大人では想像を超えるほどの記憶力を潜在的に皆持っている。「ゆとり教育」とその余波なのかどうか知らないが、とにかく今の子どもは勉強しない。自分の潜在能力に気付いていない。「昔もそうだった」という声が聞こえてきそうだが、それは合格したヤツが「オレは遊んでばかりいた」というのと同じく信用できない。学習指導要領は半減され、必修単語数は我々の中学時代の半分程度しかない。昔遊んでいたヤツが今の中学に入れば普通にクラストップになれる。それほどにレベルが下っている。そのねじれた時計を元に戻すべく授業をするとなると正に日々格闘の連続なのである。
何度も書くが、今や学校は勉強を教える所ではない。ただ、教育はそのすぐ裏に社会問題、犯罪や就業などの若年労働者の有り様の問題が潜んでいて、その学校での日々の悪戦苦闘が実は若年犯罪率の低下に実は直結しているという現実がある。だからこそ私は「学校」とか「教育制度」には大反対だが、個々の教師には全身全霊で応援する。とても遊び半分には出来ない仕事である。
奥さんが「自分が若い時に『中野ゼミナール』に通ってみたかった」と言っていた。今も昔も私の基準は「私」自身と私の「子ども」である。悪いが、今通っている生徒ではない。私が今教室にいたとしたら、この授業に満足して帰るだろうか?私の子どもをこの授業に入れる自信があるか?日々毎時間自問を繰り返している。
それがおそらく私の職業倫理の根本だと思う。